われは海の子

カモカル音楽教室は、童謡「われは海の子」を歌い継ぐことを活動の一環としてしています。

鴨池校区コミュニティ協議会の前身である鴨池校区公民館運営審議会の会長を務められた真砂本町在住の玉利勝也先生(元小学校校長)は、文部省唱歌のひとつ「われは海の子」が後世に歌い継がれる様、長年、活動を行っています。

この歌の作詞者の宮原晃一郎氏が幼少期に加治屋町で育ったことから原風景は天保山から望む錦江湾であることに思いを馳せてのことです。

カモカル音楽教室は、鴨池校区コミュニティ協議会の一員であること、玉利先生が、音楽活動の良き理解者であることなどから、「われは海の子」を積極的に活動に取り入れることとしています。

 

我は海の子歌碑のご紹介

〒892-0803 鹿児島県鹿児島市祇園之洲町1の祇園之洲公園には
『我は海の子歌碑』があり
歌碑とこの歌に対する実行委員会の思いが刻まれています

祇園之洲公園入り口の案内表示

錦江湾を望む記念碑

我は海の子 歌碑

歌碑 碑文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「われは海の子」(われはうみのこ)は、文部省唱歌のひとつ。2007年(平成19年)に日本の歌百選に選出されている。初出である1910年(明治43年)発行の文部省『尋常小学読本唱歌』におけるオリジナルの曲名は「われは海の子」(p.3:目次)、または「我は海の子」(p.64-67:本文 )となっている。作詞者・作曲者ともに不詳。ただし宮原晃一郎(本名、宮原知久)(1882年- 1945年)の娘と芳賀矢一(1867年 – 1927年)の義理の娘は、それぞれ自分の父あるいは義父が作詞者だと信ずると述べた。最近では宮原の原作を芳賀が改作したとする説が最も信頼されている

『われは海の子』の作詞者と目されている宮原晃一郎は、

鹿児島市加治屋町に生まれ、10歳より北海道札幌市に育つ。成績優秀のため高等小学校を飛び級で卒業、鉄道運輸の事務職に就く。20歳でキリスト教の洗礼を受け、牧師から英語を学ぶ。小樽新聞記者のかたわら外国文学を読み漁り、英語を基礎に独学でドイツ語、フランス語、ロシア語、イタリア語、ノルウェー語、スウェーデン語、デンマーク語を身につけ、翻訳家となる。ノルウェーのノーベル文学賞作家、クヌート・ハムスンを初めて原語から邦訳した。シグリ・ウンセットやヨハン・アウグスト・ストリンドベリの翻訳も行った。1910年頃から、有島武郎と交流を持った。上京後、1924年『世界文学』に参加する。児童文学の創作も行い、童話雑誌『赤い鳥』にて54篇の作品を残した。1930年代には、雑誌『作品』に北欧文学、ソビエト文学を紹介する記事を書いた。疎開中の1945年に死去し、蔵書は北海道大学附属図書館に寄贈された。

天保山から錦江湾、桜島を望む風景